院内銀山(現秋田県雄勝町)は、慶長11(1606)年に発見され、佐渡・石見・生野と並ぶ大鉱山として、その生産量と技術を誇った。秋田藩の直営鉱山として藩の財政を支えると同時に、天下の御役山として幕府におおいに重要視された。
天保4(1833)年から10年以上にわたって、年間の主銀高が1千貫(3.75トン)を越える「天保の盛り山」と称される最盛期を迎え、幕府が全国から買い上げる銀の6〜8割を産出した。
銀山町は、江戸から大坂から一流の芸能や豊富な物資などがもたらされて賑わい、人口3000人にも及ぶ多様な人々が参集する一大文化の町を作っていた。
その後、明治維新をへて近代化を推し進める中で絶頂期を迎えるが、鉱脈の掘り尽くしなどでしだいに衰退し、昭和29(1954)年には完全閉山し、約350年にわたる長い歴史の幕を閉じた。 |