大関 弘政プロフィール

脚本・演出 大関弘政プロフィール

 横浜市出身、63歳。学習院大学卒業後、宝塚歌劇団に入団。 以来で36年間に36本の作・演出・脚本を手がけ、94年、「若き日の唄は忘れじ」 (原作「蝉しぐれ」藤沢周平 作)の演出を最後に退団。現在は、宝塚音楽学校の演劇講師をつとめながら、 他劇団での演出等、幅広く活躍。


大関弘政氏インタビュー
大関先生とわらぴ座の出会いはいつ頃ですか?

 存在を知ったのはずいぶん古いと思います。宝塚歌劇団には郷土芸能研究会というのがありましてね、 日本の氏謡や芸能、生活に興味を持つ人が宝塚での上演を目的にいろいろ勉強するわけですが、 わらび座のことは「すごい集団があるなあ」と思っていました。 宝塚市民会館で舞台を見た記憶もありますよ。一昨年、藤沢周平先生の『蝉しぐれ』を 僕が脚色・演出したミュージカル「若き日の唄は忘れじ」をわらび座の制作のかたが見にいらしたことから お近づきになりました。あの作品を最後に僕は宝塚を定年退職したんですが、 藤沢作品をやっていなければわらび座のかたもおいでにならなかったわけだし、 まったく神様がめぐり合わせたとしか思えない(笑い)。赤い糸だったのかなという気がしています。

これまでに民話を取り上げたことは?

 実は僕が最初にやったのはテレビで放映された『山彦乙女』という作品なんです。 二十九歳頃でした。マルシャークの『森は生きている』を束北に置き換え、 ロ本の氏話のパターンと氏謡を取り入れた作品です。これが宝塚でのデビュー作にもなりました。 宝塚というと”ベルバラ”のような作品ばかりやっていると思われがちですが、八十年前、 宝塚歌劇の始祖たちがめざしたのは「国民劇」の創造だったんです。 ですから文楽やヨーロッパの歌劇まで幅広く手がけていますし、 僕白身は日本の芸能に以前から興味があった。そうした折に、わらび座からこのお話があったわけです。

なまはげ伝統を取り上げたのは、どんなイメージがあったのでしょうか?

 最初に制作からお話があったのは、たつこ姫の話でした。田沢湖にも行きましたが、 僕にはなまはげしかなかった。なぜか。『オペラ座の怪人』を日本でやるなら、 なまはげだったんです。
 男鹿市教育委員会が出した民話の本に素材になる話があり、それに黄金丸や義房、 かね婆など物語に必要な人物を入れてつくったのが『男鹿の於仁丸』です。

大関先生は「なまはげ・鬼」を語ることは「日本」を語ることだと、おっしゃっていますね。

 ええ、僕は鬼を語ることは日本の文化を語ることだと思っています。 例えば弱い者をつくりたがる気質、白分たちと異質なものを受け入れたがらない、 外来文化との関わり方…。「和を以て尊しとなし」という」言葉がありますが、 これは悪くすれば「談合をしろ」ということにもなるわけですね。 鬼=異質なものへの関わりを通して、日本人を考えることができる。 民話は日本人というものを見つめさせてくれる気がします。

日本の演劇について、どうお感じですか?

 不満ですねえ。
 十五年ほど前、ブロードウェイで四十くらい芝居を見たことがあるんです。 どれも見終わったあとに、感動で涙が出るようにつくってある。 結末がお客さんの心にふれるようにできているんですよ。
 特に印象的だったのは『ダディ』。舞台はブルックリンの再開発地域です。 ふるさとがこわされるとき、今は成功してユダヤ人街から出ていっている息子が帰ってきて、 「そうここで僕は高二のときに…」というモノローグから始まる。モーニングコーヒーをいれる父親。 二人の葛藤や苦い思い出が描かれるんですが、それまでさんざん父親に反発していた息子が、 最後に舞台を去っていくとき、おやじさんそっくりに歩いていく…。
 その後ろ姿を見ながら、涙がとまらないんです。アメリカ人は伝統や民族文化をこうやって引き継いでいくのか、 息子がおやじのあとをついでいく、こんなすばらしいことはないって。 歩き方一つでそれを表現してしまう。ある時代の、ある国だけの話ではない、 普遍性を持った作品が外国にはたくさん生まれている。
 日本のエンタティメントは見終わったとき、「それでどないしたん?」「へ−」 「きれいかったやん」と言いたくなるものが多い。泣かす場面ではただ泣かすだけ。 つくる側も観客も興行側もそれに慣れてしまっている。僕はそういうものはつくりたくないんです。
 わらび座もまた「今日の神楽」をつくろうとしている。その伝統と僕が宝塚で培ってきたミュージカルの技術を結合させ、 普遍性のある作品を生み出せたらと思っています。