白瀬南極探検隊

白瀬矗

 白瀬矗(幼名・知教/ちきょう)は、文久元(1861)年6月13日、秋田県にかほ市金浦(このうら)にある浄蓮寺の長男として生まれました。少年時代の 矗は、可愛がっていた子犬を噛み殺した狼を鎌で一撃のもとに撃退したり、千石船の底潜りに失敗して危うく死にかけたり、近所でも評判の腕白少年でした。

 少年時代に師から北極探検の話を聞いて探検家を志し、明治42(1909)年、アメリカの探検家ロバート・エドウィン・ピアリーが北極点に到達したことを知り、目標を南極へ転換します。彼は明治43(1910)年11月29日、南極探検隊隊長として「開南丸」で東京芝浦を出航、南極へ向かいました。

 明治44年11月19日、探検の目的を南極点踏破から科学調査に変更し、シドニーを出港。南極点到達レースはアムンセン隊(ノルウェー)に軍杯が上がります。

 白瀬隊長ら5名の突進隊は、28頭の犬が引く2台の犬ゾリで南極点に向かって出発しました。氷点下20度前後の厳しい寒気とブリザードのなかで、2台のそりが離れ離れになったりする事故に見舞われ、走行9日、走行距離282キロの地点で遂に力尽きます。

 明治45年1月28日、未明に氷原突進を中止した白瀬探検隊は、午後0時20分、南緯80度05分、西経156度37分、一同は整列して日章旗を立て、視野に入る全地域を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本領土とすることを宣言しました。