アテルイとは

京都・清水寺境内南苑に立つ
アテルイ・モレの碑
8世紀から9世紀にかけて、現在の岩手県胆沢地方に実在した人物。 胆沢は蝦夷の中でも「水陸万頃の地」と呼ばれ、広大な平地に満々と水をたたえた北上川が流れ、水田と耕地が広がっている。 また、日本には存在しないと思われていた金山が、蝦夷の国で発見された。 黄金は権力の象徴であり、仏像を金箔で塗りかためるために莫大な黄金が必要だった大和朝廷は、領土拡張として侵略を重ねる。 老人もいれば、女も子どももいる蝦夷の村に大軍が殺到。 胆沢の豊かな暮らしと文化、そして仲間たちを守るために立ち上がった蝦夷軍の首長が、アテルイである。
史上有名な「胆沢の合戦」は、陽動作戦が成功し、蝦夷側の勝利に終わった。 陸奥では、現在まで中央と戦って勝利したのはアテルイだけである。 大敗した朝廷軍は延暦9年(790年)、再び胆沢遠征を準備し始める。 この時、征夷副使に任命されたのが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)だった。 朝廷の攻撃により損害を受けた蝦夷側は、延暦20年(801年)、征夷大将軍に任命された田村麻呂に完敗を喫する。 しかし、胆沢に城柵を作る田村麻呂は、武力ではなく水田開発や養蚕の技術などに力を入れていたことで、争いを好まず陸奥の安泰を願うアテルイとの間に信頼関係が生まれる。 また、戦をしていても苦しむのは蝦夷の民たちであるため、これ以上の犠牲を出さないためにアテルイと副将のモレは、翌延暦 21年(802年)に田村麻呂の生命の保証をした投降勧告に応じ、帰順した。
田村麻呂はアテルイとモレを伴って京に帰り、2人の助命を願い出た。 アテルイの武勇と器量を、戦後の余燼を収めるのに活用したいと嘆願。 しかし、朝廷は田村麻呂の願いを退け、アテルイとモレは河内国で斬刑に処された。
田村麻呂が発願して建立された京都・清水寺では、アテルイをはじめ、朝廷軍・蝦夷軍の分け隔てなく、戦で亡くなった人々の供養がされた。 境内には、1994年に建立されたアテルイ・モレの顕彰碑がある。 この他、岩手県奥州市水沢の羽黒山にアテルイ・モレの慰霊碑、大阪府枚方市の牧野公園内に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑がある。


